堺屋太一さん著「豊臣秀長 -ある補佐役の生涯-」を読んだら会社で生き抜くために自分に足りないものに気づかされた




4月に入り、新社会人は新しい生活に期待と不安が入り混じっておられる方も多いのではないでしょうか?

もちろん、僕にもそんな時期はありました。

上層部の言葉は、絶対順守。

上から下に受け流す、中間管理職。

営業成績の半端ないプレッシャー。

僕が、長年勤めた会社のことですが戸惑うことばかりの日々。

「この会社で、はたして定年まで勤められるのだろうか?」

どちらかと言えば、期待よりは不安の方が大きかったです。

今回は、会社で自分の立ち位置を見出せなかった頃に、大きく影響を受けた豊臣秀長の生き方を描いた本をご紹介したいと思います。

 

豊臣秀長という戦国武将をご存じですか?

豊臣秀長とは、どんな人?

と聞かれて、答えられる人は少ないのでは?

はずかしながら、僕は奈良県に住んでいても大和郡山城城主ということくらいしか知らなかったです。

教科書にも、豊臣姓は秀吉、秀次、秀頼しか載っていないと思います。

僕が、この本を手に取ったのはもの珍しさから。

こんなマイナー人物に脚光を浴びせて、果たしておもしろい内容なのだろうか?

もしかして、全フィクション!?

それにしても、戦歴、功績が思いつかなすぎる・・・

本屋で、首をかしげたのは僕だけではないと思います(笑)

 

豊臣秀長は、豊臣秀吉の弟で大和の国を中心に116万石の所領を持つに至った人物です。

一時的にしろ、これだけの石高を有する大名なのに知名度が低いのはなぜ?

おそらく、後世の人々が兄のおかげだと評価したからでしょう。

これに一石を投じたのが、この本の著者、堺屋太一さんです。

これまでの通説やイメージを覆しただけに、読者に与えるインパクトも大きかったと思います。

僕も、良い意味で期待を裏切られました。

 

サラーリーマンで例えると文系からプログラマーに転職した人

農民から武士社会へ!

秀長は、180度違う職業に舵を切った人です。

驚くことに、秀長が武士になったのは20歳を超えてから。

すでに農民として、人生設計もあったはずです。

はたして、武士として一からやっていけるのか!?

当然、不安はあったでしょう。

特に、戦国時代において武士の出世は命がけで戦ってなんぼの世界。

農民だった秀長が、武術を身につけているはずがなく・・・

武功で、出世は望めないと考えるのが普通です。

しかも、この頃の秀吉は織田信長配下の駆け出しの末端員。

当の信長すら、尾張1国も掌握できていない状態です。

この状況下では、最前線で戦わなくてはならないのは必至。

志半ばで、戦場で命を落とすことすらあり得ます。

 

なのに、なぜ武士に転職したのか!?

どうやら、後世「人たらしの」異名を持つことになる秀吉に頼みこまれて半ば強制的に巻き込まれたようです。

秀吉にしてみれば、農民の弟を駆り出すくらいですからよほど人材に困っていたのでしょう。

それにしても、理が異なる世界に大人になってからよく飛び込めたものです。

会社で例えれば、「株式会社 秀吉」は中小企業の子会社。

それも、ガレージ創業のプログラミングの会社に文系の人間がコネ入社した格好です。

秀長も、今の生活を捨てて兄についていくにはリスクが高いと思っていたことでしょう。

 

秀長は、兄の出世と同じスピードでアップデートした人

秀吉は、立身出世の代表格。

足軽から城持ち、軍団長、天下人へと出世街道を一足飛びで駆け上がった人です。

組織は成長の一途、悩みの種は人材だったはず。

人事で心情を損ね、社員の反感を買ってしまった!

創業メンバーが、組織の急激な成長と環境の変化についていけず不満全開で全員去った!

なんてことは、創業して間もない企業によくある話です。

古参の家来がいない秀吉も、人材の獲得、人の気苦労は絶えなかったと思います。

しかし、時は戦国。

命をかけたシーソーゲーム。

この時代に、人の入れ替えを頻繁にしているようでは命がいくらあっても足りません。

おそらく、秀長は協調性に長けていたと思います。

組織にありがちなトラブル、揉め事の仲裁などの裏方の仕事を秀長が担っていたのでしょう。

 

後方支援から戦闘指揮官に

戦においても、数々の戦場で秀吉を好アシスト。

後方支援から、徐々に重要な役割を任されるようになり、中国大返しでは殿を務めるまでに!

このとき、秀長は42歳。

会社の立ち位置だと、油の乗り切った中間管理職です。

その後、賤ケ岳の戦いや小牧、長久手の戦いを経て、四国、九州征伐の頃になると凄腕の戦闘指揮官に変貌を遂げています。

内政でも、与えられた国で検地や寺院勢力の力を削いで手腕を発揮。

調停が難しいとされていた紀州や大和を、上手く統治したので実務能力も高かったと思われます。

アルバイトから支社長へ、アップデートを繰り返して昇進していった秀長。

こうして見ると、兄の求めに応えるためにたくさんのことを模索してレベルを上げて行ったのだと伺えます。

 

なぜ、農民出身の秀長が豊臣政権になくてはならない存在になり得たのか!?

秀長の人物像は、ウィキペディアにも下記のように記されています。

秀長は温厚な性格で、秀吉を補佐し、彼の偉業達成に貢献した。また寛仁大度の人物で、よく秀吉の欠点を補った。そのため諸大名は秀長に秀吉へのとりなしを頼み、多くの者がその地位を守ることが出来た。

 

長曾我部元親、島津義久も、秀長を通じて秀吉に降伏。

おそらく、豊臣政権下で秀長が支柱的存在だと判断してのことだったのでしょう。

思惑どおり、本領安堵されています。

秀長にしてみれば、これは単なる温情処置ではなく戦略的なもの。

これまでの経験で、相手を完膚なきまで叩き潰したところで代償の方が大きいと読んで秀吉にとりなしたのでしょう。

また、秀吉の逆鱗にふれた甥の秀次をかばい、家康が秀長邸を訪れたときにはお膳立てもしています。

戦も実務も、大活躍だった秀長。

秀吉も、よくできた弟に全幅の信頼を置いていたようです。

 

秀長の知識の源は、人に教えを乞うて実践で身に着けていったもの。

謙虚で人の意見をよく聞くため、秀吉の与力の竹中半兵衛、黒田官兵衛、蜂須賀小六などから学ぶことも多かったようです。

もちろん、兄に劣らずポテンシャルは高かったのだとは思います。

しかし、それ以上に何事にも誠実に取り組む姿に仲間たちの心が動かされたのではないでしょうか。

人徳と言えばそれまでですが、今も昔も誰からも好かれる人が大成するということなんでしょう。

 

もし豊臣秀長があと10年長生きしていたら・・・

秀長は、52歳の若さで亡くなっています。

秀吉が、片腕をなくしたとまで言っているので弟に先立たれたダメージはさぞかし大きかったことでしょう。

結果的に、秀長亡きあと急速に組織の瓦解が始まっています。

 

もし、秀長があと10年長く生きていたら・・・

徳川家康が、江戸に幕府を開くことなく歴史が変わっていたかもしれません。

なぜなら、いくら戦略巧者の家康も秀長がいたのでは思い通りに事が運ばず、天下を取るのが困難になっているからです。

理由としては、

1.2回にわたる朝鮮出兵の2度目は阻止できた

2.豊臣秀次や千利休が、死んでいなかった

 

2度の朝鮮出兵で、豊臣政権への求心力が著しく低下したのは周知の事実。

しかも、2度目は消耗戦になると誰もが思っていたと思います。

秀長は、裸の王様に物言える唯一の存在だっただけに必ず阻止に動いていたはずです。

もう1つは、秀吉没後に豊臣政権を支える人材がいなかったこと。

秀長が生きていれば、秀次や千利休が切腹しなければならない事態にはならないはずです。

2人が生きていれば、秀長とは良好な関係だっただけに秀吉死後の情勢もずいぶん違ったものになっていたと推測できます。

すくなくても、石田三成が追い詰められることもなく、関ヶ原の戦いも起こらなかったのではないでしょうか。

たとえ、戦があったとしても加藤清正、福島正則ら豊臣恩顧の大名が徳川につくことはなかったでしょう。

 

おわりに

今回は、兄の補佐役に撤して大成した人、豊臣秀長の生き方を描いた本を紹介いたしましたがいかがでしたか。

堺屋太一さんは、豊臣秀長のことを最も有能な補佐役、それ以外は望まない人と評しています。

秀長がいたからこそ、秀吉は表舞台だけに集中することがきた!

この一言に尽きます。

そして、誠実で無欲だったからこそ、秀吉からも周囲の人たちからも権限を持つことを望まれたのでしょう。

補佐役という生き方が現代の会社組織でも通じる考えたとき、封印しなければならないのは目先の利益ではないでしょうか?

 

スポンサードリンク







ABOUT US
blank
シンイチ
20年間、犬馬車のように結構まじめに働いてきた40代の元リーマン。 長らく会社勤めと在宅介護で消耗しきって、あえなく2年前に介護離職してしまいました。 介護は、それぞれの御家族にそれぞれの事情があります。 現代の社会問題に、このプログを通じて1人でもお役に立てれば嬉しいです。 長年、在宅介護をしている僕だからこそ、あなたに伝えたいメッセージがあります。