僕が会社勤めをしていた頃の生活は、会社に7時前に出社、退社は22時を過ぎることも度々ありました。
朝は、4時45分起床して就寝は午前1時過ぎ、通勤時間が往復約2時間半、20年程勤めましたが、おそらく15年以上そんな生活をしていたと思います。
今となっては、気狂いじみた生活を長い間よくやっていたと我ながら感心するばかりですが、働いていた頃は、さほど疑問にも感じなかったのですから催眠術にでもかかった気分です。
さすがにこの数年、勤務時間に対する世の中の風潮が厳しくなりましたので残業は減っていましたが、それでもまだまだ経営陣の認識が変わっているとは思えません。
おそらく、同調してくださる方もいるのではないでしょうか。
目次
平日プライベートの時間は皆無
朝早くの出社は、僕が自主的に来ていただけで強要された訳ではありません。
ただ夜は違います。
他の社員は出社が8時30分前後でしたので朝は普通だと思いますが、帰りは上司の目もあって帰りづらい雰囲気がいつも漂っていました。
遅い時だと退社が22時過ぎていたときもありましたので、かれこれ15時間拘束されていることになります。
残業120時間!!
さすがに厳しいです。
それでも、若い頃は会社帰りに終電まで飲み歩いてましたが・・・(笑)
もちろん、土日は バタンキューです。
役職に就いてからは、時間の縛りが長いという理由で、部下を何人も辞めさせてしまいました。
中間の立場の僕はどちらの気持ちも分かります。
そのうえで、会社側の立場で接しなければならない辛い立ち位置でした。
僕自身、仕事内容が合っていたせいか苦にはなりませんでしたが、人のことでの気苦労は絶えなかったです。
会社は古い社風で体育会系気質
僕が勤めていた会社は、社長トップの完全なワンマン会社でした。
社長の言葉は絶対厳守です。
しかも、厄介なことに言うことがころころ変わります。
中小企業の創業者にありがちですが、自分の力で切り開いてきたという自負が強いのでしょう。
自尊心が強すぎます。
最近まで社長だった2代目は、モロにこのタイプでした。
当然会社も、上司の言うことは絶対でピラミッドのような上下関係です。
遅刻はNG!特に会社の飲み会のあった翌日の遅刻は厳禁!
風邪で37度台の熱は、病気でないので会社を休むな!
体調管理の出来ないものに仕事はできない!
有給は、冠婚葬祭の時だけ使え!
僕が新人の頃よく言われていた言葉です。
今でこそ口には出しませんが、今でも暗にそのような風潮です。
僕は、このような環境で仕事をしてきたせいか、野球選手や芸能人が予防接種をしていなかった為に、インフルエンザでダウンと聞きくと、プロ意識が低いと思わずにいられません(笑)
とにかく、会社を休むことが絶対悪でしたので、男性は非常に有給取りづらかったです。
しかし、なぜか女性には甘く皆きっちり消化していました。
古い体質でも悪いことばかりではなかった
僕が若い頃は、50代の年配の方や、一線を退いた嘱託(しょくたく)の方も多くいたので、仕事の疑問や心配ごとも気軽に相談できました。
今思うと、やはりキャリアがあるだけに的確で重みが違います。
○○会社の社長は実は昔、××会社の元従業員。
独立して今では会社規模が逆転してしまった顧客の話や、うちの当時の支店長が若かりし頃、誤った倒産するかも情報を広めてしまって、その会社が本当に経営危機に陥り出禁になった話など笑いとともにたくさん教えてもらいました。
一見仕事に関係ないようなことにも思えますが、顧客の会社の成り立ちや昔話は僕の知識の引き出しとなり肥やしになっています。
年配の方に可愛がってもらうことによって、多くの武器を持たせてもらったと感謝しています。
最初は戸惑うことが多くて不安ばかりでしたが、仕事の面白さが分かってくると、徐々に気持ちも変化していきました。
当時の上司や先輩方は、ゲキの中にも愛があったように思います。
ドラマにいるような悪上司も
そう言えば、当時の支店長は歳の頃60前後、程よくボケていいキャラでした。
当時流行っていた冬のソナタのことを冬のカナタと言うのですから、まともに聞いてしまうと吹いてしまいます。
その他にもアナログのことをアナグロだとか、ドラえもんのことをドザえもんと何かと笑いを提供。
ちまたでアルツの老人、廃人と言っていました(笑)
ただ、社内では人の手柄は自分のもの、失敗は部下に擦り付けるありがちな最悪な上司です。
その支店長の口癖が、
「俺が援護射撃してやる!」
この言葉を聞くたび、身震いしたものです。
責任を取りたがらない人でしたので、ひとたび問題が発生するとすべて部下に擦り付けます。
しかも、これでもかと言わんばかりに徹底的に陥れるものですから、無防備の背後から銃弾が飛んでくるようなものです。
悪意ある弾に当たって、それが原因で会社を辞めた人も何人も見ています。
シャレではなく、本当に恐ろしかったです。
特に、切羽詰まると、背後から容赦なく機関銃の時もあったので相当に厄介でした。
営業はひどい目に合っている人も多く、僕も何度か流れ弾に当たって死にかけています。
ただ憎めないキャラで、得だなぁとよく思ったものです。
弾は前から飛んでくるとは限らない
本当の意味合いは、
「部下に撃たれるときは正面からは撃たれない。」
「後ろから弾が飛んでくるような事態を招くことはするな。」
みたいな意味合いですが、強運の持ち主の支店長は部下に背後から撃たれることなく、この会社でリーマン人生を全うしました。
一線を退いて嘱託になったあとはボケの引き出しを操り、人生を謳歌しているようにも見えました。
若い女性社員にちやほやされると機嫌よく、狙らってボケていた節があったようにも見えましたが、ボケを装っているうちに本物になってしまったのでは?と思うほど途中から見分けはつかなかったです。
当時の僕の目には、将来この立場までたどり着くと、会社は手厚く優遇してくれるのだという思いはありました。
会社は悪い意味で合理化
気付けばリストラが進んで、年配の方も一掃されてしまいました。
この10年ぐらいで、会社の人間関係も殺伐になったように思います。
特に、営業は慢性の人手不足と個々の仕事量のバランスが悪く、仕事を作り出せない人はヒマでしたが、普通に仕事に取り組む人間にとっては容赦なく働かなければならない環境でした。
いくらやっても仕事が終わりませんでしたし、雪崩のように次から次へとやってきます。
仕事に追われている状態で、プライベートにまで影響を及ぼしかねない問題を、皆が少なからず抱えている状態でした。
当然、疲弊している人に、よい発想や質の良い仕事ができるはずはありません。
部下を辞めさせてしまったことも
僕の下に人が付きだした頃に、全力で仕事をさせてしまい何人も辞めさせてしまったことがあります。
僕自身、若い頃から猛烈に仕事をしてきているので、時間や仕事量には無頓着でした。
そのうえ、僕の出来ることは出来て当たり前的なアホな考えも持っていましたので、オーバーワークさせていることすら気づけなかったです。
気力がみなぎっている時はいいのですが、そうそう長続きするものではありません。
必ず無理をした反動はおとずれます。
サッカーでも、90分全力疾走して走り回れる選手がいないのと同じように、ただ、上手い選手は時間内の力の配分が絶妙だということを知りませんでした。
当時、僕にはそういうことが全く分かっていなかったのです。
退社理由は業務内容や社風合わないなどいろいろありましたが、どれも体裁だったと思います。
本音は僕が未熟だったからです。
自分規格の物差しで人を測っているのだから、上手くいくはずがありません。
部下や後輩からすると、僕も最悪で厄介な上司の一人だったと思います。
長いリーマン人生、いかに個々の持ち味を引き出し継続させていくかを考えることが、重要だと痛感されられました。
会社に対して義務と責任を果たせたのかと問われると
失敗から学んで、部下や後輩が本社からのプレッシャーに潰されないように、ワンクッション機能付きのパイプの役割をしていたこともありました。
ついつい余計な口をはさみたくなったり、上手くいかず僕のイライラが伝わりそうな時は、営業に出たりしてやり過ごす我慢の日々を過していたものです。
辛かったこと、悪夢にうなされたことなどいろいろありましたが会社には感謝しています。
母が在宅で介護するようになってからは、何かと便宜を図ってくれましたし転勤も先送りにしてくれました。
そんな会社に、
「自分が働いたことで会社に利益を還元したかどうか?」
「責任は果たせたかどうか?」
僕が未熟だった為に会社を辞めさせてしまった後悔など、今でもたまに考えたりします。