ある日突然、母が意味不明のことを言い出して半年の入院の後、介護が必要な状態になってしまいました。
あれから7年ちょっと。
色々なことがありましたが、やはり仕事との両立が厳しかったです。
幸い、在宅で介護を始めた頃は介護度が低かったので、母の介護度に合せて環境を整たり、介助に慣れる時間が僕にはありました。
入浴や人口肛門のストーマ装具のケア、それにオムツ交換など必要に迫られて1つ1つその都度出来ることを増やしていった感じです。
しかし、月日の経過とともに次第に不自由な身体になっていく母を見て、最悪のことも考えておかなければならないとは思っていました。
早いもので、会社を辞めて1年が過ぎようとしています。
今回は、介護離職に至った経緯とその時々の心境を振り返ります。
20年勤めた会社では
母を在宅で介護するようになる6~7年前までは、有休もほとんど使わず犬馬車のように結構まじめに働いていました。
会社勤めをしていた頃は、朝4時45分に起きて7時前には出社。
この数年は、帰宅はいつも21時過ぎでしたが10年前までは日付が変わる前に帰宅することも多かったです。
確かに若い頃は、30代で課長になりたいと思っていたのでストイックに直線的な生き方をしていたと思います。
競争社会の中、人を蹴落とすことはしませんでしたが、時には人の失敗を心の底であざ笑ったり、心にもないお世辞を上司に言ったりもしました。
まあ、小物です。
犠牲にしたものもありましたが、その甲斐あって役職も1つ1つ上がっていきました。
なので、課長になったときは本当に嬉しかったです。
こんな人間でしたので、介護離職だけは回避したい気持ちは人一倍強かったと思います。
会社を辞めるとなると、収入が無くなることが一番不安でしたし、20代ならまだしも40代半ばで長年積み上げてきた生活から外れることは正直怖かったです。
最大の修羅場は7年前の半年間の入院時
母が7年前、半年間の入院していた頃が一番きつかったです。
突然、宇宙語のような意味不明なことを言い出したので驚いて病院に連れて行ったのですが、入院中も症状は悪くなる一方で、はっきりとした原因が分かりませんでした。
このとき、昏睡(こんすい)状態になって医師からは亡くなる可能性もあるので親戚・知人には連絡した方が良いと言われ覚悟したほどです。
幸い、昏睡状態からは脱しましたが、意識が戻ったあとも度重なる痙攣(けいれん)や精神の錯乱状態が続き、こちらの体力もメンタルもボロボロでした。
この時期は「この先どうなるのだろう?」という、不安しかなかったです。
原因が分からず、症状も少し良くなっては悪くなる繰り返しが半年間続くのですから、とても仕事に集中できる状態ではありませんでした。
母の容態を包み隠さず会社に報告。会社の対応は?
この時、会社には状況を包み隠さず、すべてを報告しています。
躊躇(ちゅうちょ)はしましたが、この先のことを考えると隠せる問題でもありませんし、その結果がどうなろうとも受け入れるしかなかったからです。
しかし、会社からは家庭優先で気兼ねなく休暇を取って良いと言われ、そのうえ業務内容や役職も現状維持という僕にとってはちょっと意外なものでした。
このとき、かなり負担を減らしてもらっています。
管理部にでも、飛ばされるのではないかと思っていただけに嬉しかったです。
しかし、この現状維持の処置にその後追い詰められていくとは、この時は夢にも思いませんでした。
会社勤めと在宅介護を両立する厳しさ
時代背景もあり、残業時間は徐々に減ってはいましたが、それでも在宅介護の両立となると時間のやり繰りや体力的にもしんどかったです。
会社に迷惑をかけたくないという思いもあり、仕事の負担軽減も半年もしないうちに、ほぼ以前の状態に戻していたこともあります。
母は、入退院が多かったので仕事中に救急車で搬送されたり、夜中に自家用車で病院に連れて行くことも度々ありました。
入院となると、自宅に戻って着替えやストーマ装具などの入院準備をして、夜中さらに一往復しなければなりません。
ほとんど寝ずに出勤したことも何度もありました。
そのうち不眠症に
寝つきも寝起きも良かった不眠症とは無縁の男が、まさか不眠症になるとは思いもしませんでした。
睡眠時間は、週末に多少寝だめはしていましたが、平日4時間ほどでそれほど多くないと思います。
それでも、寝起きもスッキリ起れていましたし、日中眠くなることも無かったです。
何よりも、熟睡を実感できていました。
それが、夜中にトイレに付き添うようになってリズムが狂いだしたのだと思います。
もともと僕自身、寝たら朝まで起きません。
途中で起きると眠れなくなり、そのうちに全く眠れなくなってしまいました。
ストレスなど他の原因もあったのかも分かりませんが、朝なのに脱力感がひどくて体がけだるくて本当に辛かったです。
会社を辞める恐怖と葛藤
仕事は、あとで後悔することが多くなりました。
それもそのはず。ちょっと複雑な内容になると、考えることが面倒になって一旦棚上げする悪いクセが付きだしたのです。
しかも、そのまま忘れてしまうのですから致命的でした。
現状維持するのに必死で、そのことばかり考えているのに、それでもほころびが絶えずできていく・・・
その他にも、以前では考えられないようなケアレスミスもしていたので、仕事も介護も僕の中で危ういバランスで成立している気がしていました。
介護離職をする半年前には、「もしかして、うつ?」と思って心療内科を探しています。
忙しくて行きそびれてしまいましたが、離職後は何ともないので疲れていただけだったのでしょう。
こんな調子でしたので、あれほど励みにしていた役職にも何の価値も見出せなくなっていました。
結局、在宅介護を始めてから離職するまでに、1つ役職が上がって次長止まりでしたが、この頃になると辞退できるものならしたかったです。
在宅介護を始めてからは、いかに長く会社に存続できるかを考えるようになっていましたので、消耗を避けたい気持ちが強く完全に守りに入っていました。
なので、役職は重荷でしかなかったです。
やはり、退職を避けたい気持ちが相当強かったのだと思います。
もちろん、このような僕の心境は会社の誰にも言えませんでした。
介護離職の選択。そのときの心境
長年、思い悩んでいたからでしょうか。
それとも心の準備ができていたからでしょうか。
母が、大腿骨を骨折したとき、自分でも意外なくらいあっさり退職を決意しました。
このとき、母は半年間寝たきり入院。僕も、1年近く不眠症です。
どちらも延長線上は分かり易く、すでに選択肢がなかったからだと思います。
退職の理由は介護離職!会社の反応は?
もちろん、辞表は上司に前もって相談してから出しました。
退職の意向を伝えると、意外にあっさり承諾され拍子抜けしたのを覚えています。
確かに、僕の代わりはいくらでもいますが、長い年月、投資して育成した人材が辞めることは会社にとってもそれなりに損失です。
退職理由が、介護離職だったからでしょうか?
それとも、最後の方はお荷物でしかなかったので逆に辞めて欲しかったのかもしれません。
僕自身、長期にわたり完全に力尽きた感がありましたので、使い物にならない企業戦士は無用な長物でしかないのは分かっています。
今、思い返すと会社の反応は微妙でした。
しかし、会社を去る僕にとっては、どのように思われようと関係ない話です。
ただ、「飛ぶ鳥跡を濁さず」ではないですが、これまで便宜を図ってくれた会社と、僕の穴を補ってくれていた会社の人たちに報いるため引継ぎは丁寧にしたつもりです。
おわりに
在宅で介護を始めた頃は、まさか自分が介護離職するなんて夢にも思いませんでした。
れが、約7年でギブアップです。
当然ですが、生きて行くためには大きな犠牲を払ってでも働かなければなりません。
たとえ、身体に不調があったとしても、ごまかしごまかし身を削りながら、ほとんどの人はそうして働いています。
僕も母のことがなければ、定年まで働いていたかもしれません。
介護離職して1年、家庭を取って仕事を捨てたという選択が正しかったのかどうかは今なお僕には分からないです。